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かつて勤務していた日本興業銀行では「虚礼廃止」と言い、盆暮れの贈り物や年賀状の類は自粛するよう指導されていた。約50年前のことだから虚礼廃止と言う言葉は初耳だったことは言うまでもない。当時から合理的で良い習慣だと感じていたことを思い出す。しかしながら、ふるさと熊本に帰り家業を手伝うようになってからは、郷に入れば郷に従えで季節の挨拶は復活した。もっとも、部下からの年賀状は嬉しい反面、もらったもらわなかったでえこひいきにならなぬよう気を遣うことでもあった。 そして私自身は個人的には3年ほど前から年賀状を一切出さなくなった。それまでは自撮りした写真や下手な絵を使って年賀状を作っていたのだが、なんだか面倒臭くなったのである。スマホでのメールやlineで時候の挨拶ができるようになったことも理由に挙げられるかも知れない。あるいは、30年も40年も会わずにいる方に年賀状を出すのもおかしく感じたのかも知れない。 そういう無礼なことをしながらも、引き続き年賀状を出してくれる友人や取引先がいるのも事実である。そして、今年の年賀状の特徴として、今年を最後にすると宣言する友人や資源保護の観点から年賀状を止めるとの企業が目立った。先に失礼をしている身分としてはさもありなん、わざわざご丁寧に痛み入りますという心境なのである。リスペクトが大事と言われる今日、いろいろと工夫して、大切なご縁を守っていかなければならない。
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考え事をするには車を運転するときが最適だ。とはいえそれには条件があり、通いなれた道を渋滞に巻き込まれず、さりとてスピードを出さないで安全運転する時に限る。危険を感じる時には、運転に集中し頭をフル回転させ周囲を観察しなければならないからだ。 したがって、暇なときは車を運転しながら俳句を作ったりする。車窓に広がる景色を見ながら、季語を見つけ即興で句作を試みる。時間はたっぷりあり話し相手もいないので、ああでもないこうでもないとただただ頭の中で推敲する。仮に句ができてもすぐに忘れるので、手近にある紙に書き留めるのが一苦労だ。ただそうして作った句で満足できる句は十に一つもない。 車を運転しながらするもう一つのことは、赤信号で車が止まっている時にふと見つけた景色をスマホのカメラで撮影することだ。信号が変わるまでの一瞬のチャンスを生かすのは骨が折れる。スマホを取り出し顔認証でオンにしてカメラ撮影アプリを開き被写体に焦点を合わせて撮影をしなければならない。そういう苦労を伴うだけに面白い写真が撮れたりするとご褒美を得た感じがする。普段見られない景色が確かにそこにはある。(ググると停車中のスマホ撮影はぎりぎりセーフのようだが、これからも十分注意しようっと)
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九州では紅葉もそろそろ終わりを迎えようとしている。いつものことながら、鈴懸の径で人間の手のひらのように大きく整った葉を十数枚拾ひ集めた。自宅に帰ってその一枚一枚を古新聞に挟んで押し花にするのだ。と言ってもその過程を楽しむのが常のことであり、出来上がった押し花の取り扱いにはいつも苦労する。それが分かっていながら、美しく紅葉した落ち葉をどうしても放置できない心がある。 そうした季節の移り変わりを感じるのは自然現象だけではない。日々の暮らしの中で、季節ごとの美しい言葉に出会うことがある。その一つが冬薔薇(ふゆそうび)だ。この言葉は、俳句の季語辞典で初めて知った。その不思議な読み方に感心するとともに、厳しい寒さにもめげずに健気に咲く薔薇の姿が目の前に広がる気がした。 この写真は昨年の11月末、車内に置いた冬薔薇に外からの光が当たった時のものである。一瞬薔薇は宝石かのような姿を見せてくれた。俳句歴は下手なので恥ずかしくて言えないが、こうした季節の美しい言葉に会える限りはこれからも続けていきたいと思っている。
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