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今年もまた終戦日を迎えた。痛ましい原爆の投下があった末に日本が敗戦した日だ。私が社会人としてのスタートした広島では、原爆忌の8月6日は街全体が鎮魂の重苦しい雰囲気の中にあった。原爆ドームの横を流れる大田川ではマイクから読経が流れ、原爆で亡くなった親や親族の名前を記した灯籠が川を覆い尽くした。会社の同僚に何気なく灯籠流しは広島の夏の風物詩だねと言ってひどく叱られたが、私の不明ぶり極まれりだったと反省するばかりである。 海軍中尉であった父にとっても終戦日は特別であった。戦時中は戦争の前線で活躍する軍人として尊敬されたが、終戦により戦争犯罪人の如く見られたのだ。世論は風のように実体がつかめず、しかも風向きはしばしば変わる。世論に上げたり下げたりされぬように用心しなければならないと時々思う。 その父について私が詠ったのが、「特攻の二十歳の父の終戦日」である。今週の句会に投句して、幸い複数の句友から選句してもらえた。そう父は戦争末期には千歳空港で特攻隊の隊長をしていた。そして終戦、帰郷した時は二十歳の若さであった。何と言う早熟。国家総動員令の元で若い命を無駄に死なせた政府あるいは国家が犯した罪は果てしなく大きい。
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未だに忘れられない客室乗務員がいる。ブラジル移民100周年行事のため熊本県の訪問団の一員としてブラジルを訪問した時のことである。日本を立ったデルタ航空の飛行機は中継地であるアメリカに向かっていた。アトランタは東海岸寄りにあるので10時間を超える長旅である。その間一人のアメリカ人客室乗務員が我々を担当してくれた。年齢は50歳前後、細身で浅黒い肌を持つ理知的な女性だった。 彼女の話し方はささやくようであり、立ち振る舞いは流れるようであった。そして痒い所に手が届かかんばかりに気を使ってくれた。機中皆が寝静まっている時にふと見ると、彼女は席に腰を降ろして本を読んでいる。その横顔は静寂そのものであり、読書に没頭していることが分かった。 その時の彼女の動きは日本の茶道に似ていると感じた。無駄口はたたかず洗練された所作でおもてなしをする。その動きは侘び寂びに通じるものがあった。そして、典雅な所作とは日本の専売特許ではなく、例えば教会で聖職者がミサを行うことと似て、世界でもまた賞賛されるべきものだと思ったのである。
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いつの間にかパソコンに保存している写真が5万枚を超えた。昔は写真はネガで保存するしかなかったが、デジタル社会の到来で写真の保存法が一挙に変わった。私の場合は、カメラにしろスマホにしろ撮った写真は必ずパソコンに保存している。保存の難しいネガは、ある時点で特殊な装置ですべてをデジタル化した。しかしネガの変色が著しいのは、きちんとした保存法を知らなかったのだからやむを得ない。 むしろ問題は5万枚を超える写真をどう整理し活用するかである。海外視察では平均千枚ぐらい撮影するので、これはと思った国については写真を厳選し1冊限りの写真集にしている。海外では南アメリカ、イギリス、フランス、中国、トルコ、国内では熊野、牛深、五島列島などが一冊の写真集となった。写真集にすると分かることは、写真の質はもちろん、選択とレイアウトにもセンスが必要ということである。うまくいった時は何度も見たくなるが、出来損なった時は反省頻りである。 とはいえ編集を待っている残りの写真は膨大。なお毎日新たな写真が付け加わっていることを考えれば、今の内に写真整理法を開発しなければならない。写真1枚1枚を修正するとなるとかかる時間は検討もつかない。まるで膨大な情報に溢れている現代社会における悩みと共通しているようだ。
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