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熊本という地で仕事をする中で心配なことの一つは、地元生まれの若人の消極的な態度です。地方に生まれ、地方で育ち、地方の企業で仕事をすることになれば、世間が狭くなるのは自然なことです。比較対象がない場合は、自分自身が消極的であるとか、世間を知らないということすら認識できないかも知れません。さらに、折角大都会の一流大学を卒業したのに、即ぐに帰郷して地方の企業に就職するというケースがあります。地方のオーナー経営の企業では、可愛い息子をあえて他人の窯の飯を食べさせて汚してはいけないとの父親の考え方から、即ぐに手元に置く場合すらあります。 情報収集力や人脈形成力が重要になってきた現代社会では、前記したような直線型の就業は、せっかくのチャンスを逃すばかりか、成長の機会を自ら閉ざしているように思えてなりません。司馬遼太郎が書いた小説「峠」には、幕末の越後長岡藩の家老として、最後まで薩長同盟軍と戦った河井継之助が描かれていますが、彼は「田舎の勉学より京の昼寝」と言っています。これは、田舎でどんなに猛勉強しても、全国から有為の人が集まり最新の思想や情報が集まる京都で昼寝している方がずっと有益だという言っているのです。さらに言えば、尊王の志士にとっては天皇の住まいがあるのが京都ですから、そこにいてこそ様々な政治活動ができたのです。 つまり、直線型の就業よりも複線型の就業の方が、一見遠回りのように見えて結局は実力を付ける道になっていると思うのです。五木寛之は自分の小説に「青年よ、荒野を目指せ」というタイトルをつけました。まさに荒野が青年を鍛え、人生に打ち勝つ力を付けてくれるのです。
そうした有為な青年を数多く、まるで古代中国の偉人達、例えば斉の孟嘗君や秦の呂不韋らが食客を抱える競争をしたかの如く、近くに集めたいなとの夢を持ち続けています。
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これまでの私の人生で経験できなかったことが海外留学と単身赴任です。若い時には本気で海外留学を目指したことがありましたが、何となく挫折したのは、勉学に対する志が弱かったのだろうと今になってはよく分かります。しかし夢というのはなかなか覚めないもので、壮年になっても憧れの海外のビジネススクールに行きたいと思ったことが何度かありました。
もう一つ実現できなかったのが、大手会社勤務では常態化しているように思える単身赴任です。これまた若かりし頃は、単身赴任は気楽で良かろうななどと妄想することが度々でした。引き蘢り症候が出始めた今では、体力・気力の衰え、一人生活の不便さばかりが想像され、憧れから恐怖に変わり始めています。 海外留学となるとまず語学力が必要となります。英語の勉強をしている時に聞いた逸話ですが、ひたすらFMで英語番組を聞いていたら、ある朝突然に英語が理解できるようになったというのです。これを私流に解釈しますと、特異点というのがあり、英語の勉強がマグマのように蓄積され、特異点により突然に爆発した状態と思われます。水を温めて沸騰させる時にも沸騰直前にこの特異点が存在します。
また、単身赴任のベテランに聞きますと、生活に工夫をしていることに感心させられます。朝食の取り方から休日の過ごし方までなるほどと思わせる知恵があるのは、会社の先輩から後輩へ引き継がれる知見があるからでしょう。 かくして私はウルトラ・ドメスティックとして、ウルトラ・ローカルとして現状の生活を満喫しています。
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O先生は陶芸家として一家を成しているだけでなく、元来の親しみ易さからファンの多い方です。大きな工芸展の審査員を長く勤めていることからも分かるように、今や斯界の重鎮と言っても過言ではないと思います。
そのO先生は今では、熊本を離れ佐賀県に移住され作陶されていますが、以前は熊本市内に窯を築き作品を焼いておられました。その時代の作品を整理販売したいとのご案内をいただき、旧宅を訪ねたのは秋晴れの続く10月の一日のことでした。O先生の家からは、西に金峰山山系、東に阿蘇山が眺められ、高台にある敷地には心地よい風が吹いていました。 O先生と抹茶をいただきながらおしゃべりしている内に、O先生の先祖が幕末には天草の本渡で壷や瓶を焼いていたということを知りました。さらに、屋号は「かめや」で、壷や瓶を船に載せて熊本城下にまで運んでいたとのことです。
そこでハタッと気づいたのは、我が家の先祖とO先生のご先祖様とは縁があったのではないかということです。我が家が明治2年に乾物問屋「かめや」を創業するまでは、熊本城下の瓶屋町で壷や瓶を作り売っていたとばかり思っていたのですが、よく考えれば新三丁目門という重要かつ壮大な櫓の横で火など使える訳などあり得ません。 きっと我が家は、O先生のご先祖様が天草で作った壷や瓶を仕入れて売っていた販売業者だったのです。さらに想像を膨らませば、同じ「かめや」の屋号ですから、製造・販売以上の深い関係があったかも知れないのです。ということで残念ながら、幕末の身分は士農工商で言えば上から三番目の「工」から一番下の「商」に一ランク下がったのでした。
(写真は、数年前に長崎で偶然に発見された新三丁目門です)
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